株式会社 要建設 | 代表取締役
髙野賢 氏
ご自身のご略歴や事業に携わるようになった経緯などについてお聞かせください
■ 都市計画プランナーとして関西で活躍
私は昭和28年に水戸市で生まれ、茨城県立水戸第一高等学校を卒業後、金沢大学工学部に進学しました。大学卒業後は同大学の大学院に進み、交通工学や都市計画分野の研究に没頭しました。社会人になってからは、拠点を京都に移し都市計画事務所に入社しました。
関西は平城京や平安京などが栄えた日本の歴史上、大変重要な地域であり、“都市計画の聖地”と言われています。
私は都市計画プランナーとして、大阪や神戸などの関西地方の自治体の都市計画事業に携わり、数多くの経験を積みました。
その間、私は、国家資格・技術士の建設部門「都市及び地方計画」と「道路」分野に2年連続で合格しました。技術士は、エンジニアとしてはトップクラスの資格です。2分野の資格を保有する技術者は、当時は少なかったと思います。
■ 32歳「人生の分岐点」で独立を決意
私は32歳の時、京都市東山区の京都霊山護國神社に眠る坂本龍馬の墓を参拝したことがあります。明治維新につながるシナリオを作った龍馬は、当時の私と同じ年齢でこの世を去りました。
そのほかにも30代をキーワードに色々と調べた結果、仏教の開祖である釈迦が悟りを開いたのも私と同年代だったということを知りました。
32歳。先人たちの“人生の分岐点”であった年齢を迎え、私は「何か始めなくては」という想いに駆られました。そして、1年後の昭和61年、勤めていた会社を退職して独立し、髙野技術士事務所を設立しました。
幸い、思った以上に仕事が舞い込み、唯一の息抜きである京都御所周辺の散歩以外は、四畳半の小さな仕事場にこもって、日々仕事に明け暮れました。
その後、水戸そして茨城のまちづくり、都市計画に取り組みたいと決意し、京都から水戸に戻りました。
■ 「備前堀」整備計画に参加
水戸に戻って半年後、私は髙野技術士事務所を㈱まちプラン研究所として法人登記し、代表取締役所長に就任しました。しかし、水戸での実績は多くありませんでした。そんな時、水戸市の「備前堀」整備計画のプロポーザルに参加し、当社は大手3社との戦いを勝ち抜いて、元請になることができました。
当時の水戸市長佐川一信氏(故人)からは、温かくも厳しい言葉をいただきました。しかし、今振り返れば、私に大きな期待を寄せていただいていたのだと思います。
備前堀の整備は、水戸市のビッグプロジェクトの1つでした。佐川元市長は「未来を拓く水戸芸術館は日本最高の建築家に、一方、歴史的な備前堀はローカルで」と話していたそうです。
お会いする度、「勉強しているか」と声を掛けていただくなど、常に気に掛けていただきました。佐川元市長は、私を育ててくれた大切な恩師であり、私もそのような人物になりたいと思っております。
現在の備前堀の姿は、私が30年以上前に描いた基本構想が元になっています。今でも多くの市民に愛される水戸の親水空間の1つとして機能しており、大変誇らしい気持ちです。
■ 県内のまちづくりアドバイザーを多数歴任
私は、平成19年に株式会社要建設の4代目に就任するまでの約20年間、備前堀の業務などに関わりながら、茨城県内の自治体のまちづくりアドバイザーとして活動しました。茨城県大規模小売店舗立地審議会をはじめ、水戸市地方広域市町村圏協議会審議会などに参加したことで、広い人的ネットワークを構築することができました。
御社の事業概要や創業理念、事業の多角化に至った経緯などについてお聞かせください
■ 建設業以外に8事業を展開する多角経営
当社は、昭和47年に髙野要之助(故人)が立ち上げた建設会社です。創業理念である「尽くして求めず、尽くされて忘れず」を基本に、創業以来、茨城県の発展に貢献して参りました。
施工実績としては、住宅、病院、工場、商業施設、教育・文化施設、スポーツ施設などがあります。平成30年12月には、筑波銀行水戸駅南支店の施工にも携わらせていただきました。
しかし、近い将来、建設業界は頭打ちとなる日が訪れると思います。次の時代を見据えた時、私たちは常に楽しみながら変革し続け、既成概念を壊して新たな価値を創造していく必要があります。この考え方は、経営理念である「創造と変革、安心と安全、楽しさと豊かさ」に通ずるものです。
現在、この想いが実現し、当社は建設業だけでなく、不動産業や環境事業をはじめ、茨城県産の食材を使用し健康にこだわった食事を提供する飲食業、美容に関連するサービスを提供する健康事業、さらには海外飲食事業など合計9つの事業を多角的に展開しています。
☆ 要建設が展開する9つの事業内容
1 建 設
2 不動産 (ピタットハウス水戸店)
3 開 発 (まちステーション日立)
4 環 境 (太陽光発電など)
5 健 康 (Bio Harvest)
6 飲 食 (Bio Harvest、まち庵、まち鮨)
7 食品製造
8 海外輸出
9 コンサルティング (㈱まちプラン研究所)
■ 未経験の飲食業に挑み、見事成功
事業の転機となったのは、日立駅前の活性化を目指した市のビッグプロジェクト「まちステーション日立」の開発でした。プロジェクトの監修には、日立市出身の世界的建築家・妹島和世氏を迎え、当社は商業ゾーンの開発を担当しました。
しかし、完成間近に東日本大震災が起きたことや採算性の確保が難しいことを理由に、商業ゾーンでは、大手フランチャイズチェーンからの新規テナント出店が見込めずにいました。
また、JR常磐線日立駅構内で営業していた蕎麦屋の閉店が決定したことで、私は蕎麦屋に勤める年配の主婦たちから「店を再建してください」と懇願されるようになりました。
私はディベロッパーとしての使命感から、雇用を守ることを決意しました。そして、「飲食店経営者として勝負できる」と確信するまで、徹底的にノウハウを勉強しました。
1年間の試行錯誤の末、当社は商業ゾーンに自家製の「常陸秋そば」を提供する「蕎麦処 まち庵 日立駅店」をオープンしました。開店後は苦労の連続でしたが、現在では軌道に乗り、首都圏への出店も計画中です。
その後も、当社は飲食店の店舗数を拡大し、平成25年には、まちステーション日立内に「Café de Ville」を開店しました。また、平成27年にはエステサロン&ヘルシーレストラン「Bio Harvest」、平成28年には「蕎麦処 まち庵 水戸エクセル店」、平成29年には「蕎麦居酒屋 まち庵 水戸銀杏坂店」、平成30年には「割烹 まち鮨 水戸本店」を本社近くに開店しました。
本社から近い「Bio Harvest」「まち鮨」の2つは、社員食堂としての機能も果たしています。
海外での事業展開や御社のビジネスモデルについてお聞かせください
■ 不安の中に「安心」を見出し、果敢に挑戦
当社は、平成28年5月、台湾に現地法人・台湾城市創造股份有限公司を設立しました。また、同年11月には、海外初の「まち庵」となる「麻吉庵台北大安店」をオープンしました。
残念ながら、そばの魅力が現地人に伝わらず、同店は昨年3月に閉店しましたが、現在は、日本のB級グルメ事業を展開し台湾のテレビにも取り上げられました。今後は、日本の高級魚を空輸し、現地の和食店をはじめとする高級飲食店に卸すという新たな事業を展開する計画です。
日本の高級魚は、海外で大変な人気を博しています。今後は、海外事業に精通している株式会社epoc(本社:東京都港区)と連携しながら、海外での飲食関連事業をさらに強化していく予定です。
未知の領域である海外での事業展開には、大変大きな不安が伴います。しかし、私は事業を始める前にその不安と徹底的に向き合い、“最悪のストーリー”をできる限り描き切るようにしています。
この作業を行い、不安の中に「安心」を、厳しさの中に「楽しさ」を見出すことで、一歩ずつ確実に進む勇気と意力を得ています。将来は茨城の豊かな「食」をアジアに広めていきたいと考えています。
■ 多角経営で「地域未来牽引企業」に選定
当社の主軸はあくまで建設業であり、飲食業等は全て営業チャネルです。当社は「まちグループ」全体でハード(建設)とソフト(飲食サービス)を組み合わせることで、より主軸を強化できると考えています。これが当社のビジネスモデルです。
また、建設と様々な事業を掛け合わせて地場産業の発展に貢献していくことは、地方の建設会社としてのミッションだと考えております。
当社は、海外事業をはじめとした多角経営が評価され、平成29年3月、経済産業省中小企業庁から「はばたく中小企業・小規模事業者300社」に選定され、平成30年12月には「地域未来牽引企業」に選んでいただきました。
10年後には売上高60億円を達成することを目標に、M&Aなども検討しながら、国内外での様々な事業に果敢に挑戦していきたいと考えています。
理想の会社像と今後の事業戦略についてお聞かせください
■ お客さまに豊かな価値を提供し続ける
理想の会社像は、「人が集まる会社」です。今後は、特に各部門のリーダー育成に注力していきたいと考えています。
「リーダーの器の大きさ」=「企業の器の大きさ」です。社員の無限の可能性を引き出せるようにするため、「働き方改革」にも積極的に取り組んでいきたいと考えています。
これからは、価値を創造する時代です。当社は国内外のお客さまにとって豊かな価値を提供し続けるため、社員一同、精進して参ります。
記事転載: 筑波総研㈱ 筑波経済月報2019年7月号より